ひとりぐらし白書 東京ライフストーリー 一覧へ
第1話

「東京の部屋は、画面より狭かった」

東京ライフストーリー|連載小説

東京行きの新幹線は、大宮を過ぎたあたりから速度を落としはじめる。

窓の外に、建物の屋根がびっしりと並んでいた。秋田では見たことのない密度だ。灰色と茶色の屋根が、パッチワークみたいに途切れなく続いている。

——私、本当にこの景色のどこかで暮らすんだ。

急に、心臓がどくんと鳴った。

キャリーケースの取っ手を握る手に、じんわりと汗がにじむ。結月はその手を太腿の上で握りなおして、ゆっくり息を吐いた。

スマートフォンが震えた。画面を見ると、母からのLINEだった。

『着いだが? ごはん食べだが? お弁当持たせだはずだども』

まだ着いていない。お弁当はさっき食べた。おにぎりが四つ、卵焼き、きゅうりの漬物、鶏の唐揚げ。高校の遠足みたいなラインナップだったけれど、最後の米粒まで残さず食べた。今朝、横手の家を出る前の朝四時に起きて握ってくれたことを、結月は知っている。

『もうすぐ着くよ! お弁当おいしかった。ありがとう』

送信してから、棚の上のキャリーケースに目をやった。服と最低限の日用品。それと、母が最後に押し込んだ、やけに重い紙袋。中身は五キロのあきたこまちと、実家の味噌と、なぜか熊よけの鈴だった。

——お母さん、東京に熊はいないと思う。

* * *

新幹線が東京駅に滑り込んだとき、結月はまず人の波に息を呑んだ。

平日の昼間だというのに、改札を出た途端に四方から人が押し寄せてくる。秋田の横手駅なら、この時間帯はホームに五人いれば多いほうだ。ここでは五歩ごとに誰かの肩がぶつかりそうになる。

「すみません、すみません……」

誰に謝っているのか自分でもわからないまま、結月はスマートフォンの画面を確認した。今日の目的地は、中野坂上。不動産屋ではなく、今日から住む部屋だ。

鍵は三日前に届いていた。レターパックで。

* * *

部屋を決めたのは、二週間前のことだった。

きっかけは、ネットで見つけた不動産仲介会社のフォームに希望条件を入力したことだ。家賃七万円まで、1K以上、駅から徒歩十分以内、バス・トイレ別、二階以上、オートロック付き——。母が「オートロックだけは絶対だがらな」と何度も念を押していたので、その条件だけは外せなかった。

フォームを送信した翌朝、電話がかかってきた。

「白川さんですか? 株式会社リブステージの倉持と申します。ご希望条件、拝見しました。いくつか良い物件がありますので、ぜひオンラインでご紹介させてください」

声が明るくて、感じがよかった。「オンラインでご紹介」という響きが新鮮だった。秋田にいながら東京の部屋を見られるなんて、便利な時代だ——結月は素直にそう思った。

翌日の夜、仕事から帰って、実家の自分の部屋でノートパソコンを開いた。ビデオ通話の画面に、倉持の人懐っこい笑顔が映った。三十代前半くらいの男性。清潔感のあるシャツに、ノーネクタイ。

「まず一件目、お見せしますね。中野坂上駅から徒歩七分、1K、家賃六万八千円。築二十二年のマンションです」

画面に映った物件は、正直に言ってぱっとしなかった。外壁が少し黒ずんでいて、共用廊下の蛍光灯が一本切れていた。室内の写真は悪くなかったが、「バランス釜」というものがバスルームに鎮座していて、見たことのない形をしていた。

「あの……これって、お風呂はどうやって……」

「あ、バランス釜ですね。昔ながらのタイプなんで、慣れれば大丈夫ですよ。ただ——正直に言うと、若い女性にはちょっとおすすめしにくいかなと思ってます」

倉持はそう言って、苦笑した。

「じゃあ二件目。同じく中野坂上、徒歩五分、1K、七万二千円。築十五年。こっちは設備もまあまあで——」

画面が切り替わった。先ほどよりはましだったが、ユニットバスだった。トイレと浴室がカーテン一枚で仕切られている写真を見て、結月は少し顔を曇らせた。

「あ、ユニットバスは気になりますよね。お気持ち、わかります」

倉持は結月の表情を画面越しに読み取ったらしく、頷いた。

「実は、もう一件ご紹介したい物件があるんですけど——」

少し言いにくそうに、倉持が切り出した。

「ご予算より上なんです。八万五千円。ただ、条件がすごく合ってるんですよね。見るだけ見てもらっていいですか?」

断る理由が見つからなかった。見るだけなら、お金はかからない。

「……はい、お願いします」

画面に映し出された物件は、前の二件とは明らかに格が違った。

白い外壁。ガラス張りのエントランス。オートロックを抜けた先のロビーには観葉植物が飾られていて、築八年の分譲マンションだと倉持は説明した。部屋の映像に切り替わると、フローリングが照明を反射して輝いていた。独立洗面台。二口コンロ。浴室乾燥機。

「分譲マンションの一室がたまたま賃貸に出てるんです。造りがしっかりしてるんで、隣の音もほとんど聞こえないですよ。セキュリティも高いし、近くにスーパーも二軒ある。七階の角部屋で——」

「七階……」

結月は思わず声を漏らした。横手の実家は平屋だ。七階なんて、人生で住んだことがない。

「ただ、八万五千円はご予算オーバーですよね。無理にとは言いませんので——」

「あの」

結月は画面の中の倉持を見つめた。この人は、忙しい中でわざわざ三件も物件を探してくれた。一件目を「おすすめしにくい」と正直に言ってくれた。嘘をつかない、誠実な人だと思った。

けれど——八万五千円。秋田では八万五千円あれば2LDKの駐車場付きに住める。農協の寮は月一万二千円だった。

「もう少し考えてもいいですか?」

「もちろんです。ただ——一点だけ。この物件、今ならフリーレント一ヶ月がついてるんです。月末までのキャンペーンで。あと、実はもう一組、問い合わせが入ってまして」

「え」

「いやいや、焦らせるつもりはないんです。ただ、とりあえず申込書だけ出しておくのはどうですか? 申込は契約じゃないので、気が変わったらキャンセルできますよ。枠だけ確保しておくイメージです」

申込は契約じゃない。キャンセルできる。

その言葉が、結月の背中を押した。

「……じゃあ、申込だけ」

「わかりました! じゃあ、今からメールで書類をお送りしますね」

その夜、結月はスマートフォンで届いた申込書のPDFに必要事項を記入し、本人確認書類の写真と一緒に送信した。指が少し震えていたのは、寒さのせいだと自分に言い聞かせた。

* * *

三日後、倉持から電話がかかってきた。

「白川さん、審査通りました! おめでとうございます!」

おめでとうございます——と言われると、なんだかもう後に引けない気がした。

「あの、やっぱりちょっと家賃が高いかなと思って——」

「あ、それ、僕もちょっと気になってたんです。でね、さっき管理会社に確認したら、フリーレント一ヶ月がつくのは今週中に契約した場合だけなんですって。来週になるとキャンペーン終わっちゃうんで、フリーレントなしの八万五千円になっちゃいます」

結月は黙った。

「あとね、審査って大家さん側もけっこう手間かかってるんですよ。ここで白川さんがキャンセルすると、大家さんにもご迷惑がかかっちゃうんで——いや、キャンセルする権利はもちろんありますよ? ただ、僕としても大家さんとの関係があるんで……」

——大家さんに迷惑。

その一言が、結月の胸にずしりと来た。

顔も知らない大家さん。でも、この部屋を貸してもいいと審査してくれた人。その人に迷惑をかける。倉持さんにも迷惑をかける。こんなに親身に対応してくれたのに。

農協にいた頃のことを思い出した。二年目の秋、窓口に来た健康食品の営業を「ちょっと怪しいな」と思って丁重に断ったことがある。翌日、先輩の早苗さんに呼び出された。「あの人ね、町内会の佐藤さんの紹介で来た人だったの。佐藤さん、カンカンだって。結月ちゃん、この辺じゃ人を邪険にしたら生きていけないよ」。

あの日から結月は学んだ。目の前の人の好意は、まず受け取る。疑うより信じたほうが、物事はうまく回る。少なくとも、横手ではそうだった。

「——お願いします。契約します」

「ありがとうございます! じゃあ、重要事項説明をオンラインで——IT重説って言うんですけど、今から三十分ほどお時間いいですか?」

IT重説。聞いたことのない言葉だったが、倉持が「最近はオンラインでできるようになったんですよ」と笑うので、結月も「便利ですね」と返した。

画面共有された重要事項説明書を、倉持が読み上げていく。結月はノートパソコンの前で正座して聞いていた。専門用語が多くて、三割も理解できなかった。でも、倉持の読み上げるスピードは速くて、「ここまでで何かご質問は?」と聞かれるたびに、結月は「大丈夫です」と答えた。質問したいことがないのではなく、何を質問すればいいのかがわからなかった。

「——なお、本契約には短期解約に関する特約が付帯しております。入居日より一年未満に賃借人の都合により解約する場合、違約金として賃料二ヶ月分をお支払いいただきます」

倉持がさらりと読み上げた一文を、結月はぼんやりと聞いていた。

——一年未満に解約したら、二ヶ月分。十七万円。

でも、一年以内に引っ越すつもりなんてない。せっかく東京に来たんだから、ここで頑張るのだ。関係のない条件だ、と結月は思った。

「で、初期費用のほうなんですが——」

倉持がメールで送ってきた見積書をスマートフォンで開いた。

敷金 一ヶ月分85,000円
礼金 一ヶ月分85,000円
仲介手数料 一ヶ月分+税93,500円
保証会社利用料 初回42,500円
火災保険料(2年)20,000円
鍵交換費用(ハイセキュリティキー)33,000円
室内消毒施工費22,000円
消臭抗菌施工費16,500円
24時間生活安心サポート(24ヶ月一括)39,600円
合計437,100円

四十三万七千百円。

結月は声が出なかった。農協時代に二年かけて貯めた九十万円の半分近くが、一瞬で消える。

「あの……この、消毒とか、消臭っていうのは——」

「ああ、それは入居前の衛生施工ですね。前の方が退去されたあとにプロが消毒と抗菌処理をするんです。分譲マンションなんで必須になってまして」

必須、と言われた。

「24時間サポートっていうのは?」

「水漏れとか鍵の紛失とか、夜中でも対応してもらえるサービスです。一人暮らしの女性には安心ですよ。みなさん入ってらっしゃいます」

みなさん入っている。

結月は見積書のスクロールを止めて、そっと画面を閉じた。

「……お願いします」

本当は、一つひとつの項目について「これは本当に必要なのか」と聞きたかった。でも、ここまで親身にしてくれた倉持さんに、値切るような真似はしたくなかった。それは、人の好意を踏みにじることだと思った。

送金を終えたとき、通帳アプリの残高は四十六万円になっていた。

* * *

そして今日、結月は東京にいる。

中野坂上駅を出ると、大通り沿いにチェーンの飲食店やコンビニが並んでいた。裏路地に一本入ると、古いアパートや小さな寺がひっそり佇んでいるのも見える。少しだけ、ほっとした。

マンションのエントランスに立ったとき、結月は足を止めた。

——あれ?

オートロックの向こうに見えるロビーは、画面で見たときより少し狭かった。観葉植物は確かにあったが、葉の先が茶色く枯れかけていた。照明が画面越しより暗いのは、時間帯のせいだろうか。

エレベーターで七階に上がり、七〇三号室の前に立つ。レターパックで届いた鍵を差し込み、回す。

ドアを開けた瞬間、最初に思ったのは——

——狭い。

画面で見たのと同じ部屋のはずだった。フローリングも、独立洗面台も、二口コンロも、全部ある。嘘はない。嘘はないのだけれど、何かが違う。

数歩で壁に着く。それで気がついた。オンライン内見の映像は、広角のカメラで撮られていたのだ。実際に立ってみると、キッチンの横幅は両手を広げたら届きそうで、「リビング」と呼ぶにはためらわれる空間の中央に立つと、四方の壁がすべて視界に入る。

ベランダに出てみた。西新宿のビル群が——見えた。ただし、画面で見たときの印象とはだいぶ違う。手前に建つ隣のマンションの屋上が視界の下半分を占めていて、ビル群は建物の隙間から、のぞき込むようにしてようやく見える程度だった。

結月はベランダの手すりに両手を置いて、しばらく黙っていた。

——騙されたとは、思わない。思いたくない。

だって、嘘は言われていない。部屋は確かに綺麗だし、オートロックもついているし、浴室乾燥機だってある。ただ、画面で見たものと、目の前にあるものとの間に、小さなズレがいくつも積み重なっていて、それが胸のどこかをちくちくと刺していた。

* * *

部屋に戻って、秋田から送った段ボールの開梱に取りかかった。

最初の箱を開けると、緩衝材に包まれたマグカップが出てきた。大学時代の友人からの餞別で、「東京砂漠をサバイブせよ」と油性ペンで書いてある。次の箱からは、母が詰めた大量のレトルト食品とカップ麺。その下に、熊よけの鈴。

結月は笑った。笑って、それをキッチンの壁に掛けた。からん、と間の抜けた音がした。それだけで、少しだけ部屋が実家の匂いを帯びた気がした。

荷解きを半分ほど終えたところで時計を見ると、夜の八時を回っていた。買い物に行っていないので、冷蔵庫は空。米はあるが、炊飯器は明日届く。

——コンビニ、行こう。

財布とスマートフォンだけ持って玄関を出た。廊下は明るかった。秋田の夜道よりもずっと明るいのに、秋田の夜道よりもずっと心許なかった。

エレベーターのボタンを押して、待つ。

ふと、廊下の奥から足音が聞こえた。スリッパが床を叩く、ぱたぱたという軽い音。

振り向くと、紺色のポロシャツにチノパンの中年男性が歩いてくるところだった。手にコンビニのビニール袋を提げている。

目が合った。

男性の目が、一瞬だけ結月の全身を上から下に滑った——ように見えたのは、気のせいだったかもしれない。次の瞬間には、人の良さそうな笑顔になっていた。

「あ、もしかして七〇三の? 引っ越してきた方?」

「は、はい。今日から住み始める白川です。ご迷惑おかけしてたらすみません」

反射的に頭を下げた。顔を上げると、男性はにこにこと笑っていた。

「いやいや、全然。僕は七〇六の戸塚です。斜め向かい。何か分からないことがあったら、いつでも聞いて。ゴミの出し方とか、ちょっとややこしいから」

「あ、ありがとうございます……!」

「一人暮らし?」

「はい」

「そっかそっか。最初は大変だよね。——あ、これ良かったら」

戸塚はビニール袋からペットボトルのお茶を一本取り出し、結月に差し出した。

「引っ越し祝い。大したもんじゃないけど」

「え、いいんですか? ありがとうございます!」

結月は満面の笑顔で受け取った。東京の人は冷たいと聞いていたけれど、全然そんなことない。こんなに親切な人がご近所にいるなんて、ラッキーだ。

「じゃあ、おやすみ。何かあったら遠慮なくね」

戸塚は手を振って、七〇六号室のドアを開けた。

ドアが閉まる直前、戸塚の視線がすっと動いた。結月の顔ではなく、七〇三号室のドア横——部屋番号のプレートの上を、なぞるように。

結月はそれに気づかなかった。もらったペットボトルのラベルを見ていたからだ。

——東京、思ったより悪くないかも。

エレベーターに乗りながら、そう思った。

* * *

コンビニで鮭おにぎり二つとカップの味噌汁を買って帰り、フローリングの上で遅い夕食をとった。

食べながら、なんとなくスマートフォンで検索してみた。

「中野坂上 家賃相場 1K オートロック」

表示された結果をスクロールする。

「中野坂上駅 1K・オートロック付き・築10年以内の平均家賃相場:約8.0万〜9.5万円」

八万五千円。相場の範囲内だ。

——なんだ、そんなに変な金額じゃなかったんだ。

少しほっとして、味噌汁をすすった。

でも、もう少しスクロールしていくと、別の記事が目に留まった。

「賃貸契約、その初期費用は本当に必要? 断れる"オプション"一覧」

指が止まった。

記事を開くと、見覚えのある単語が並んでいた。「室内消毒施工」「消臭抗菌施工」「24時間安心サポート」——。

『これらのオプションは法的に加入義務がなく、不動産会社の収益源として上乗せされているケースがほとんどです。「必須です」と言われても、実際には断ることが可能な場合が多いです。室内消毒は市販のスプレーとほぼ同等の処理であることも多く、費用対効果には疑問があります。24時間サポートは管理会社が既に類似のサービスを提供している場合、完全に重複します——』

結月は、おにぎりを持つ手が止まったまま、画面を見つめていた。

消毒、二万二千円。消臭、一万六千五百円。サポート、三万九千六百円。

合わせて、七万八千百円。

七万八千百円あれば、秋田なら一ヶ月暮らせる。

『また、仲介手数料は宅地建物取引業法により、原則として「賃料の0.5ヶ月分+消費税」が上限と定められています(依頼者双方の合意がある場合に限り1ヶ月分まで可)。言い値で1ヶ月分を支払っている場合、交渉の余地があったかもしれません——』

結月はゆっくりと、おにぎりの残りを口に入れた。

噛んで、飲み込んだ。

なんだか、鮭の味がしなかった。

テーブルの代わりにしている段ボール箱の上に、スマートフォンをそっと伏せた。

——倉持さんは、悪い人じゃない。

そう思いたかった。

悪い人じゃないのだ、たぶん。ただ、結月が知らないことを、倉持さんは知っていた。知っていて、教えなかった。それは「嘘」とは違う。違うけれど——何と呼べばいいのか、結月にはまだわからなかった。

それから、もう一つ。

さっきの記事をスクロールし戻して、ある一文を探した。

『フリーレント付き物件には「短期解約違約金」が付帯していることがほとんどです。フリーレント分を回収するための条項であり、一般的には「1年未満の解約で賃料1〜2ヶ月分」が相場です。契約前に必ず確認しましょう——』

重要事項説明のとき、倉持さんが早口で読み上げた一文が蘇った。

「入居日より一年未満に解約する場合、違約金として賃料二ヶ月分」。

十七万円。

一年間は、この部屋から動けない。

結月は仰向けに寝転がって、天井を見た。白い天井。蛍光灯の光が少し青白くて、実家のオレンジ色の灯りとは違う色をしていた。

窓の外から、救急車のサイレンがかすかに聞こえる。

スマートフォンを拾い上げて、母にLINEを打った。

『部屋、あったかいよ。明日から頑張る。おやすみ』

送信して三秒で、既読がついた。この人は、いつも待っているのだ。

返事は短かった。

『頑張りすぎるな おやすみ 戸締まりしろよ』

結月は画面を胸の上に伏せて、目を閉じた。

布団しか敷かれていないフローリングの上は硬くて冷たくて、実家の畳の柔らかさが恋しかった。

でも、泣かない、と決めた。

自分で決めて、ここに来たのだ。

知らないことが多すぎた。でも、知らなかったことを、今日知った。それだけでも、昨日の自分よりは少しだけ前に進んでいる——。

……はずだ。たぶん。

一人暮らし、初日。

東京の夜は、思ったよりも静かで——思ったよりも、長かった。

〈第1話・了〉

📋 この話で知っておきたい、一人暮らしの知識

結月の失敗を振り返りながら、部屋探しの基本を確認しましょう。

「オンライン内見」を過信しない

オンライン内見は便利ですが、広角レンズで撮影された映像は実際より広く見えることがあります。日当たり、周囲の騒音、共用部の状態など、画面ではわからない情報も多いです。可能であれば契約前に一度は現地を訪問するか、物件周辺のGoogleストリートビューの確認、同じマンションの口コミ検索など、複数の情報源でチェックしましょう。

「とりあえず申込だけ」に要注意

申込自体は契約ではありませんが、審査が通ると「大家さんに迷惑がかかる」「キャンペーンが終わる」といった心理的な圧力で断りにくくなります。申込書を書く前に、「この家賃を毎月払い続けられるか」を冷静に計算する時間を取りましょう。

初期費用の「オプション」は断れることが多い

「室内消毒施工費」「消臭抗菌施工費」「24時間安心サポート」などは、法的な加入義務がないケースがほとんどです。「必須です」「みなさん入っています」と言われても、契約書に「加入が入居条件」と明記されていない限り、交渉の余地があります。不要だと感じたら「外せますか?」と聞いてみましょう。

「仲介手数料」の上限を知る

宅地建物取引業法では、仲介手数料の上限は原則「賃料の0.5ヶ月分+消費税」です。ただし、依頼者(借主)が承諾した場合は1ヶ月分まで請求可能とされており、多くの不動産会社が1ヶ月分で請求しています。事前に知っておくだけで、交渉の選択肢が生まれます。

「短期解約違約金」の条項を必ず確認

フリーレント付きの物件には、「1年未満の解約で賃料1〜2ヶ月分の違約金」という特約がほぼ確実についています。これ自体は違法ではありませんが、後から「引っ越したいのに引っ越せない」という事態を招くことがあります。契約前に必ず重要事項説明書で確認し、納得してから署名しましょう。

次回、第2話「オートロックの内側の世界」
結月、ご近所への引っ越し挨拶に挑む。手土産は何がいい? どこまで回ればいい? そして戸塚さんが、ふたたび笑顔で現れる。
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